「どうしたんだい? リヴァイ?」
夢の淵から自分の名を呼ぶ声にグイと引き戻される感覚があった。
「……何がだ。」
「あなた、道路を走ってたらいきなり車を端につけて疼くまったんだよ。覚えてないの?」
覚えていないか、と聞かれ、俺は考える。頭は靄のかかったままだった。
俺はミケとハンジを連れ、いつものように酒を飲みに行った。途中でナナバが合流し、ミケと飲み比べが始まった。ハンジはあまり飲めない。俺は運転役なので携帯を弄っていた。まだ飲み足りないともつれるミケとナナバを残し、俺は運転免許の無いハンジを乗せて帰る途中だった。
窓の外はまだ暗いと見て、数時間も経っていない。今は深夜だろう。
それまで車で走っていた男が突然記憶が飛ぶなんてありえるのだろうか。一体、どうしたのかと聞かれても、自分でも何が何だか分からない。ハンジは訝しげに俺の様子を伺っている。具合が悪いの?救急車を呼ぼうか? やめろ大袈裟だ。
携帯が鳴る。エルヴィンからだ。5度目のコールを聞き、ハンジに出てくれと伝えた。
『だいぶ疲れてるんじゃないか?』
「俺が?」
『ああ、そうだ。少し気分転換に外へ出て、空気を吸うんだ。音楽でもつけてリラックスしろ。』
「できればスラングまみれのラップ以外のが良いね。」
ハンジの減らず口が真横からとんできたので舌打ちし、薄眼を開け、手探りでラジオの局を回す。ああクソ、よりによって政治討論が流れてやがる。もっとダイヤルを回すと、今度は静まり返った空間を切り裂くような軽快な曲が流れてきた。ハンジは「ボウイじゃないか!」と意外なほどに高い声をあげたが、今の自分はどの音もとても耐えられそうになかった。駄目だ。頭がクソ重い。
エルヴィンから電話ごしに「迎えに行こうか?」と今にも言い出しかねない空気を読み取ったので、ノーと断る。
「大丈夫だ。また連絡する。」
『わかった、気をつけろよ。ハンジ、リヴァイをよろしく頼む。』
「アイアイサー。」
ドアを開けて窓枠を掴みがらよろよろ脱出する。
ミラーに映る自分の姿を見たが、なんとも情けない姿だった。ひやりとした夜風が肌に当たり、地に着いた革靴の足元を見ると、少しだけ頭がシャキッとした。
いつものようにジャケットの内側から煙草をとりだそうとした矢先、指から滑り落ち、悪態が口に出る。体を折って屈んだ途端、ギクッといやな感覚がして、地面が歪んで、むかつきが胃に込み上げてきた。…なんなんだこれは。 だいぶ悪い。
しばらくして治ると、道筋に沿って少し歩いてみた。目を上げると数メートル先にネオンが光る看板が見えた。その数十メートル先、目を凝らすと田舎道にはそぐわない、それなりに見た目の良いホテルが建っているのが見える。
引き返すのも面倒だ…と、車を返り見た。そこで、すっかり忘れていた同乗者の存在を思い出す。忘れてもよかったのだが。車の中に眼をこらすと、あいつ、ハンジは、助手席で瞼を閉じている。遠目からでも分かる整った顔立ちは、いつになく真剣に眉を寄せ…
寝ているんじゃないか?
なんだそれは。
待て。
…………。
俺は無言で車に戻ると、メガネを叩き起こし、エンジンをかけた…
「なかなか素敵なところじゃないか。」
俺たちがさも文化人の面をして食事をする間、欠伸を噛み殺したウェイターが退屈そうに服の皺をのばしていた。
「駄目だ、掃除が全然なってねえ。飯についてはそれ以前の問題だ。」
「受け付けのご婦人の眼帯には興味をそそられるけどね。」
ホテルに足を踏み入れるや早々、片目に眼帯姿のフロント女が目にとびこんできた瞬間、ハンジが俺の耳元で「幽霊ホテルへようこそ」と冗談でささやいたものだ。
俺たちは疲れていたが、非日常に迷い込んだ錯覚があってか、会話の節々に愉快さを覚えていた。ハンジ御用達のマンガショップからZ級ホラー映画の話まで。ほかに会話する話題も無かったし、お互いに長い付き合いで言い尽くしていた気がした。しだいに熱くなるハンジの熱弁をぼんやり流している俺の様子に気がつくと、グッと眉を寄せ身を乗り出してきた。
「リヴァイ、本当に具合が悪そうだね。」
今さら何だと? 当たり前だ。何だと思っていやがる。俺に下心があってお前をここへ連れ込んだとでも? そいつはクソ笑えないジョークだ、傑作すぎる…。
しかし今夜のハンジからは違った印象を受けていた。具体的にそれが何なのか分からない。髪か?服か? こいつの目はこんなに爛々としていたか。眼帯…
…だめだ、頭痛がする。
「もう寝たほうがいいんじゃない?」
「ああ、そうする。」
俺は極力無駄のない動きで席を立ち、ハンジがそれについて来る。
「この辺は自然が豊かだね。近くに綺麗な川があって魚も釣れるそうだよ。」
どうやら受け付けの眼帯女とまだお喋りする元気があったようだ。自身が仕入れてきた最新情報をのんびりとした口調で開示する。
川…。生臭さがリアルに迫ってきていよいよ吐き気がしてきた。まともに返事はせず、さっさと逃げるように旧式のボロいエレベーターにのりこむ。このクソ旧式のクソオンボロエレベーターが一度も止まらず5階に辿り着けたなら、あとは廊下を渡り一晩を提供する部屋の鍵を開けるだけだ。そしてベッドの上に倒れこみ回復を待つ。
もちろんハンジとは同じ階の廊下で別れるつもりだった。
つもりだった。
「待て」
「もういいんじゃないかな。」
「待て」
「こんなチャンス無いからさ〜。もっと親睦を深めたいんだよね。」
「入るな。待て。動くと殺す。」
「こっわ… 」
奴、ハンジは俺が防御するドアに体半分を強引に捻じ込み、悪びれもなくにこにこ笑っていやがる。
「別に一つのベッドで寝るわけじゃないんだし、取って食うつもりじゃ…」
俺の殺気を感じてか、慌てて付け足す。
「嘘、嘘! 心配なんだよ! リヴァイのことが!」
「お前……言語は理解してるか?どうして部屋を一つしかとってない?」
確かにフロントで2人分の鍵を受け取ったのはハンジだ。俺もその様子は見ていた。その後、カウンターに片肘をついて、さも楽しそうに眼帯女とお喋りする背中ごしに女の奇妙な視線を感じていた。ねちっこい、特有の視線。あれは、あからさまな好奇の目だったのではないか?
うんざりとドアの反対側を振り向くとツインベッドが目に入る。
「ほら〜。落ち着いてよ。部屋に入れてくれたらお茶でも淹れるからさ。」
コイツ、笑顔で言いのけやがった。華奢といえど、それなりに力はあるやつだ。だとして俺の比では無いが、押しのけたとして「 痛!! ギャアア!! 」と叫びながら床に尻もちをつき、憐れっぽい嘘の演技でフロア全体の客を呼び覚ますこともコイツならやりかねない。そして騒ぎを聞き付けた野次馬どもがドアから俺たちを好奇の目で覗く未来が見えた。コイツ、ハンジは全て分かってやっている。だからさリヴァイ、潔く諦めてさっさとドアを開けたら?と言いたげな顔に余計に腹が立つ。
「動くな。今フロントに電話する…」
ハンジとすったもんだ攻防している内に、また鋭い頭痛が襲ってきた。
「…ッ………」
本当に、なんて夜だ。
「えっ? リヴァイ?」
突然力の弱まった俺にハンジが狼狽えながらおずおずと手を伸ばした。奴の指先が俺の肩に触れ、ビクッと反射的に振り払った。
ハンジは、少し傷付いたような眼をした。
わかった…
とりあえず、こいつのことは、無視すればいい。どうせ明日の朝までだ。何もあるわけがない。静かに回復を待ち、朝を迎えるだけだ。
一夜だけだ。
そう決心してしまうと、今までの葛藤は何だったのか分からないほど冷静になれた。
「もう分かったから、騒ぐな。他の客に迷惑になる。…さっさと入れ。」
「え? う、うん。…騒いでたのはリヴァイのほうだよね?」
「クソメガネ…」
頬がゆるみ、スーッと息を吸いこむ。
俺は後頭部を鷲掴み、一気にドアの中に引き入れた。
end